読書

2018年6月10日 (日)

人間臨終図巻(下巻)⑥

山田風太郎の著書、p.155

死を無と断定することは、人間の心を侮辱することだ。
――パストゥール――

*****

山田風太郎の著書、p.157

今日も愚直な雪がふり
小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
小屋にゐるのは一つの典型、
一つの愚劣な典型だ
――高村光太郎『典型』――

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2018年6月 9日 (土)

人間臨終図巻(下巻)⑤

山田風太郎の著書、p.103

生はやがて終わるからこそ、人間は生をエンジョイするのである。死こそ生の最高の味付けだ。
――オーソン・ウエルズ――

*****

山田風太郎の著書、p.126

いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん
――『論語』――

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2018年6月 8日 (金)

人間臨終図巻(下巻)④

山田風太郎の著書、p.55

生は有限の道づれ旅
死は無限のひとり旅

*****

山田風太郎の著書、p.84

幸福の姿は一つだが、不幸のかたちはさまざまだ、とトルストイはいった。同じように、人は、生まれて来る姿は一つだが、死んでゆくかたちはさまざまである。

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2018年5月 8日 (火)

人間臨終図巻(下巻)③

山田風太郎の著書、p.43

昭和五九年、彼(福沢諭吉)の肖像は一万円札になったが、彼が知ったら立腹するだろう。千円札の漱石至っては、いうもおろかなりである。
最もこういうことをきらいそうな人間を、そろいもそろってよく紙幣の肖像に使ったものだが、人間死ねば生きているやつに何をされても無抵抗である。

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2018年4月24日 (火)

人間臨終図巻(下巻)②

山田風太郎の著書、p.35

死んで不倖(ふしあわ)せになった人を、ひとりでも見たことがあるかね?
――モンテーニュ――

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2018年4月23日 (月)

人間臨終図巻(下巻)①

山田風太郎の著書、p.19

いかなる人間も臨終前に臨終の心象を知ることが出来ない。いかなる人間も臨終後に臨終の心象を語ることが出来ない。なんという絶対的な聖域。

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2018年4月22日 (日)

聖地巡礼 Rising ④/4

聖地巡礼シリーズの二冊目。
内田樹と釈徹宗の対話が中心の本。以下は内田の発言。

ヨーロッパにおいて自然は、攻撃的で威圧的なものとして観念されている。だから、人間は、それと対立し、攻略し、支配し、収奪しょうとする。ですから、その場合にはテクノロジー、科学技術が人間と自然の間のインターフェイスになる。人間と「人間を超えるもの」との間を架橋するものが「機械ベース」なんです。機械的なものを介在させることによって、自然の巨大な力を人間世界の中に取り込み、有用なものに変換させる。
でも、日本は違う。それはこの温帯モンスーンの列島の自然がヨーロッパのそれよりもはるかに人間に優しいからです。列島の自然は温和で、融和的で、共生可能なものとして人間を受け容れてくれる。自然と人間世界のインターフェースがとても柔らかいんです。だから、自然の大きな力を取り込むために使ったインターフェースは機械ではなくて、身体だった。自然と人間世界を架橋するものが「整えられた身体」だった。だから、自然から大きな力を取り入れて、それを人間にとって有用なものに変換することを目指した人たちは、機械をつくるよりもまず自分の身体を整えた。感受性を高め、運動精度を高めて、自然と人間世界の間を架橋できるだけの能力を開発しようとした。
(p.233)

身体を整えるシステムとは、
平安末期の武芸、鎌倉期の仏教、室町時代の能楽、のようです。

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2018年4月21日 (土)

聖地巡礼 Rising ③/4

聖地巡礼シリーズの二冊目。
内田樹と釈徹宗の対話が中心の本。以下は内田の発言。

脳が巨大化した理由は「ペンディングする」という機能を備えたからだと思います。「これ、どっちなんだろ?」「よくわかんない」というとき「とりあえず、ここに置いとこう」とデスクトップにカテゴライズ不能なものを置きっ放しにする。そういう「処理しないで、ほうっておく」という作業はデスクトップをどんどん拡げて、脳の容量を上げることによってしか対応できない。はかの動物にはそういう「ペンディング」ができないけれど、人間にはそれができる。「名づけえぬもの」がここにあるという宙づり状態に耐えられる。それが人間のいいところなんです。(p.176~p.177)

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2018年4月20日 (金)

聖地巡礼 Rising ②/4

聖地巡礼シリーズの二冊目。
内田樹と釈徹宗の対話が中心の本。以下は内田の発言。

この海洋の自然力の活用ということは平家滅亡から七〇〇年抑制されるんですけれど、それが幕末にまた復活してくる。勝海舟と坂本龍馬は幕末に操船技術を高めて、海洋を自由に行き来できる技術が日本が生き延びるためには絶対に必要だということを言い出しましたね。これは平家滅亡以来の海洋の自然力の再発見だったと思います。
日本の歴史を見ると、「野性の力、自然の力なんて別になくてもいい」という人工的というか、都会的な文化が栄える時代がありますね。平安時代がそうだったし、室町時代もそうだったし、江戸時代もそうだった。そういう都市文化的な政治体制は、必ず野性のエネルギーを制御できる種族によって滅ぼされる。都市文化と自然力信仰って、そういうふうに互い違いに現れるものじゃないですか。(p.82~p.83)

都市文化とは京都、自然力信仰とは熊野・伊勢・福原(大輪田泊)。

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2018年4月19日 (木)

聖地巡礼 Rising ①/4

聖地巡礼シリーズの二冊目、訪れた聖地は熊野。
内田樹と釈徹宗の対話が中心の本。以下は内田の発言。

いまのところ、世代間に敵意というはどのものはないと思うんですけど、格差拡大が進行していますから、資源分配のフェアネスを訴えることは必要なんです。格差が行き過ぎると、それに対するフェアな分配への要求も必ず行き過ぎになる。でも、フェアな分配を求める暴力性というのは、それを抑制するロジックが弱いんです。(略)
だけど、正義が行き過ぎるのは、ある意味では自然過程なんです。日本人の民族性として、とことんまで行くしかないというのがありますよね。『忠臣蔵』や『昭和残侠伝』がそうですけれど。不正を芽のうちに摘んでおいて、なにごともないところで収めるというのが苦手で、それこそ「膿が出る」まで、患部の劣化を放置しておく。途中のほどほどのところで抑制して、微妙な補正を行なうというのが苦手なんです。それよりは、万人が「これはいくらなんでも非道である。許しがたい」と思ってくれるところまで悪を顕在化させておいて、最後に劇的に破壊して、自分も返り血を浴びる。(p.56~p.57)

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