読書

2018年4月20日 (金)

聖地巡礼 Rising ②/4

聖地巡礼シリーズの二冊目。
内田樹と釈徹宗の対話が中心の本。以下は内田の発言。

この海洋の自然力の活用ということは平家滅亡から七〇〇年抑制されるんですけれど、それが幕末にまた復活してくる。勝海舟と坂本龍馬は幕末に操船技術を高めて、海洋を自由に行き来できる技術が日本が生き延びるためには絶対に必要だということを言い出しましたね。これは平家滅亡以来の海洋の自然力の再発見だったと思います。
日本の歴史を見ると、「野性の力、自然の力なんて別になくてもいい」という人工的というか、都会的な文化が栄える時代がありますね。平安時代がそうだったし、室町時代もそうだったし、江戸時代もそうだった。そういう都市文化的な政治体制は、必ず野性のエネルギーを制御できる種族によって滅ぼされる。都市文化と自然力信仰って、そういうふうに互い違いに現れるものじゃないですか。(p.82~p.83)

都市文化とは京都、自然力信仰とは熊野・伊勢・福原(大輪田泊)。

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2018年4月19日 (木)

聖地巡礼 Rising ①/4

聖地巡礼シリーズの二冊目、訪れた聖地は熊野。
内田樹と釈徹宗の対話が中心の本。以下は内田の発言。

いまのところ、世代間に敵意というはどのものはないと思うんですけど、格差拡大が進行していますから、資源分配のフェアネスを訴えることは必要なんです。格差が行き過ぎると、それに対するフェアな分配への要求も必ず行き過ぎになる。でも、フェアな分配を求める暴力性というのは、それを抑制するロジックが弱いんです。(略)
だけど、正義が行き過ぎるのは、ある意味では自然過程なんです。日本人の民族性として、とことんまで行くしかないというのがありますよね。『忠臣蔵』や『昭和残侠伝』がそうですけれど。不正を芽のうちに摘んでおいて、なにごともないところで収めるというのが苦手で、それこそ「膿が出る」まで、患部の劣化を放置しておく。途中のほどほどのところで抑制して、微妙な補正を行なうというのが苦手なんです。それよりは、万人が「これはいくらなんでも非道である。許しがたい」と思ってくれるところまで悪を顕在化させておいて、最後に劇的に破壊して、自分も返り血を浴びる。(p.56~p.57)

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2018年4月18日 (水)

痛くない死に方④/4

ある葬儀屋さんがこんなふうに言っていました。「自宅で平穏死した方のご遺体は軽い。でも、大学病院で亡くなられた方のご遺体はずっしり重いんです」。/実は、枯れて死ぬ最期(平穏死)と、溺れて死ぬ最期(延命死)では10㎏以上の体重差があるのです。

長尾和宏「痛くない死に方」 (p.45)

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2018年4月17日 (火)

痛くない死に方③/4

人は生まれたとき、体重の約8割が水分です。それが、成人したときには約6割に減少しています。そして高齢者になると半分以下となっていきます。終末期を迎え平穏死される時には、(これは在宅医としての私の実感ですが)4割といったところでしょうか。
しかし、終末期以降も不必要な延命治療を続ければ、それは無理に肥料や水をやりすぎて根腐れをした木と同じようなもの。最後まで1日あたり2?もの輸液を行うと、心臓や肺に過剰な負担がかかり、心不全と肺気腫(はいきしゅ)でもがき苦しむことになるのです。
つまりベッドの上で溺れているのと同じ状態です。

長尾和宏「痛くない死に方」 (p.44)

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2018年4月16日 (月)

痛くない死に方②/4

自然な死に方とは何か? 枯れゆくように死んでいく、ということです。
それでは、自然な死に方の反対の死に方は何かと言えば、溺れながら死ぬ、ということ。人生の最期の10日間に過剰な点滴など延命治療をした人は、痰や咳で苦しみ、ベッド上で溺死している。これが日本人の大半なのです。

長尾和宏「痛くない死に方」 (p.42)

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2018年4月15日 (日)

痛くない死に方①/4

欧米各国の人が言う「<日本で自殺が>許されている」というのは、法的なことでも倫理的なことでもなかったのです。それはつまり、「神様に許されている」ということ。仏教には、「自殺をしたらあの世に行けない」という教えは無いように思います。
しかし、キリスト教やイスラム教においては、自殺はご法度。神様からの借り物である肉体を殺(あや)めることは重大な罪とされているようです。
さらに日本は、つい最近まで切腹さえ存在した国。時代劇で見るサムライたちの〝ジャパニーズ・ハラキリ″は欧米の人から見ると、クレイジー! というか、アメージング! というか、とんでもないことなのです。もちろん現代日本人にはあり得ないことですが、ともかく欧米人は、自殺のできる国ということで日本人に畏怖(いふ)すら抱いているようでした。

長尾和宏「痛くない死に方」 (p.39)

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2018年4月14日 (土)

私たち、戦争人間について ⑦/7

どのような国際関係であれば国家間の衝突は起きにくくなるのだろうか。一国が圧倒的な力を保持している状況では戦争が生起する可能性が最も低くなる、という考えもあれば、冷戦期の米ソのように、力の括抗する二つの大国が存在する状況が戦争の可能性を低くするという考えもあり、力の均衡する三つ以上の大国が存在する状況こそが戦争の可能性を最も低く抑えるといった考えなど、さまざまな見方がある。
いずれにしても、個々の国がいくら進歩しでも、国と国との関係が常に平和的であるという保障はない。いまのところ国家よりも上位の権力はないので、国家間での葛藤は調整や解決が難しく、武力闘争に発展してしまう可能性はなかなかなくならない。
そこで、これまで、いわゆる「世界政府」構想がさかんに議論されてきた。

石川明人 「私たち、戦争人間について」 p.246

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2018年4月13日 (金)

私たち、戦争人間について ⑥/7

「群衆」は、しばしば犯罪的行為を行う。単独であれば宮殿に火をつけたり、店舗を荒らしたりできないが、群衆の一員になって巧みな暗示を与えられると、一瞬のうちに残忍で凶暴になり、容易に略奪や殺人もやってのけてしまえると指摘されている。
しかし、その一方で、群衆は何かのために自らを顧みない犠牲的な、無私無欲な行いもすることができるともいう。特に、栄光とか、名誉とか、信仰、祖国などといったことに関する感情に訴えれば、人々は見事に自発的に動くのであり、歴史というのはそうしで作られていくのだ

石川明人 「私たち、戦争人間について」 p.203

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2018年4月12日 (木)

私たち、戦争人間について ⑤/7

非軍事の戦いを軍事の領域と密接にリンクさせ、軍事闘争を政治のみならず、経済、文化などの分野での闘争とも呼応させていこうとする考えを、中国は堂々と打ち出しているのである。
貿易、金融、外交、国際交流、資源、宗教、芸能文化、スポーツなど、あらゆる物事が戦争と関連づけられる。残念ながら、人間を幸福にするものは、戦争にも「使える」のだ。戦争は特定の一領域にとどまることなく拡散し、社会のあらゆる領域に溶け込んでいくのである。

石川明人 「私たち、戦争人間について」 p.183

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2018年4月11日 (水)

私たち、戦争人間について ④/7

「軍事」というのは、社会のなかの特殊な一領域なのではなく、その社会が持っているあらゆるものを用いる際の方向性だと言ってもよいかもしれない。そうした意味では、「軍事」そのものが実在するわけではないとも言えるし、「軍事」はすべての領域に拡散しているとも言える。

石川明人 「私たち、戦争人間について」 p.161

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