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2020年4月 7日 (火)

ワンティームの光と影

目指すべきは「同質」ではない
 昨年のラグビーW杯での日本代表の活躍は見事だった。国籍も使う言葉も異なる様々な人々が、日本の名のもとに集結し、素晴らしい成績を残しただけでなく、全国に感動を呼び起こし、熱狂をもたらした。流行語大賞にワンティームが選ばれたのは当然だったと思う。異なる人々が一つのティームを形成して集結する。ふだんはバラバラであっても、この時ばかりは一つの目標を目指して団結する。美しくさえあった。
 しかし、その後、多くのおじさん、おばさんたち、組織の上司たちがうれしそうに言いだした「ワンティーム」は、あまりいいものと思えなかった。
 そもそも日本人は、一つになるというのが大好きなのだと思う。多様性を目指す社会と言いながら、皆で一緒であることが大切なことだと思っている。その団結の内部は、ラグビー日本代表ティームのような多様性を許さない。協調性といえば聞こえがいいけれど、内部では同調性の圧力が強くかかってくる。仲良くするということは、皆とちがうことをしないことであるようなのだ。
 集団を形成するとき、団結を求めると、必ずその陰の部分で排除の原理が働いてしまう。その集団に入りがたいと感じる人間がいると、つまはじきにされる。アウトサイダーは心強くなければ務まらない。そうでなければいじめの対象になって悲しい境遇をかこつことになってしまう。 ワンティームを声高(こわだか)に言うおじさん、おばさんは、そういうことを無視する。自分の率いる組織がワンティームであることを目指す。それは、内部の和を乱さない限りにおいて許される。その和は、同質であることを意味する。
互いを許容するティームに
 もう一つ、ラグビーティームのひとつのありようで特徴的なのは、ひとつの目標を掲げるのだが、その目標にふさわしい人が選ばれて、しかもその目標が達成されれば、すぐにでも解散してしまうということなのだ。ラグビーのワンティームは、W杯のための一時的なプロジエクト集団にすぎない。
 ところが、私たちのふだんの組織は、選抜されてできているわけでもなく、しかもいつまでこの集団に属していなければいけないのか、期限がわからない。成員たちには、選ばれたというエリート意識もないし、集団間に共有される明確な目的もない。たまたま同じ場所にいただけの、烏合(うごう)の衆(しゅう)に等しい。いつまでこれをやっているべきなのかわからず、しかも無理やり他人と同じ行動を求められる。大きな組織であれば、お互いの名前も顔もわからない。連帯意識を持てというのがそもそも無理なのだ。
 多様性を許容できるワンティームができて初めて、大人の国と言えるかもしれない。

サライ2020年3月号、金田一秀穂による連載「巷(ちまた)の日本語」、第38回「ワンティ-ムの光と影」

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