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2020年3月 3日 (火)

政治の季節

ある時代が政治的であるということは、人々がかまびすしくおのれの政治的意見を語り、政治的組織に属し、運動をするという外形的な兆候を指すのではない。例えば、今の日本でもメディアには政治を語る言説があふれているし、党派的にふるまう人はそこらに数えきれないほど存在するけれども、私は現代日本人を政治的とは見なさない。現代日本は「非政治的な季節」のうちにあると思っている。/それは「政治的」であるというのは、自分個人の生き方が国の運命とリンクしているような「気がする」ということだからである。
「『世界を変える』とマルクスは言った。『生活を変える』とランボーは言った。この二つのスローガンはわれわれにとっては一つのものだ。」(アンドレ・ブルトン)/名言だと思う。こういうふうに考える人間のことを「政治的」と呼ぶべきだと私は思う。
「政治の季節」の人々は次のように推論することになる。
1・自分のような人間はこの世に二人といない。 
2・この世に自分が果たすべき仕事、自分以外の誰によっても代替し得ないようなミッションがあるはずである。
3・自分がそのミッションを果たさなければ、世界はそれが「あるべき姿」とは違うものになる。
 こういう考え方をすることは決して悪いことではない。それは若者たちに自分の存在根拠についての確信を与えるし、成熟への強い動機づけを提供する。/その逆を考えればわかる。
1・この世には私のような人間は掃いて捨てるほどいる。
2・私が果たさなければならないミッションなど存在しないし、私の到来を待望している人たちもいない。
3・だから、私が何をしようとしまいと、世界は少しも変わらない。
 このように推論する人のことを「非政治的な人」と私は呼ぶ。/自分が何をしようとしまいと、世界は少しも変わらない。だから、私はやりたいことをやる。人を突き飛ばそうと、おしのけようと、傷つけようと、汚そうと、奪おうと、それによってシステム全体にはさしたる変化は起きない。そういうふうに考えることが「合理的」で「クール」で「知的だ」と思っている人のことを「非政治的」と私は呼ぶ。現代日本にはこういう人たちがマジョリティを占めている。

内田樹の研究室、のブログ 2020-01-29 政治の季節、から。
全文はこちら

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これは三島由紀夫のドキュメンタリー映画のパンフレットに書いた文章とのこと。その映画は、三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実。3月下旬、サロンシネマで公開。見に行こう。

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