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2019年12月10日 (火)

「弱い歴史」と「強い歴史」

二人(サルトル&レヴィ=ストロース)の応酬はレヴィ=ストロースの『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」に収められている。私の目を惹(ひ)いたのは、歴史には「強い歴史」と「弱い歴史」があるという人類学者の主張だった。かいつまんでいうと、弱い歴史は1000年、100年、10年単位でたえず転変をくり返すけれども、強い歴史は何万年、何十万年、何百万年つづくなかで、一切の個別性や個人性を消却して構造的な持続性を示す。このような意味において、弱い歴史と強い歴史はその価値尺度を根本的に異にするのだといい切っているのである。
 具体的には、1789年はフランス革命が勃発した年であるが、この歴史的な日付も、何万年や何千年の歴史的尺度であらわされる事件にたいしては何の意味ももっていないし、何の連続性も有していない。その逆もまた真である、と。
 重ねていうと、民族とか宗教の要因は、いわゆる「近代化」の過程で克服されていくという議論を、われわれはしばしばきかされてきた。たしかにそのような面が認められないではないけれども、21世紀に入ってからの世界の情勢をみているかぎり、民族と宗教の要因がもたらす衝撃的な脅威はいぜんとしてなくなってはいないことに気づく。それは、人間の「死」のテーマとともに「強い歴史」にあらわれる構造的な特質であるかもしれないのである。

朝日新聞 be on Saturday 2019年11月30日
(生老病死)人間の「死」という「強い歴史」 山折哲雄(宗教学者)

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