無理
せめて一度くらい試してもいいではないか
無理というのは、できないこと、不可能なことを言う。宝くじを5回連続で1億円当てるのは無理である。100kgのバーベルを持ち上げるのは無理である。6時からの歌舞伎と7時からのコンサートを同時に楽しむのは無理である。8段の跳び箱を跳び越すのは無理である。今の日本で1kgの覚せい剤を処分して大金を稼ぐのは無理である。不可能であること、無理なことにはいろいろある。
そこで、例えば大学の教室で、「来週までに1000字のレポートをまとめてくるように」などと学生に申し渡すと、「無理―っ」と一斉に言われる。お父さんの下着と一緒に洗濯物を洗うのは「無理」である。おじさんとふたりで一緒にカラオケするのは、まったくもって「無理」である。なんかおかしくないか。
それが無理であるかどうかは、試してみなければわからないではないか。一応やってみて、できるかどうかを調べてから、不可能かどうかが判明する。やってもいないうちから無理とは何事か。まして、洗濯をすること、唄を歌うことが不可能であると断言できるはずがない。何事であるか。
考えてみると、可能にはいくつかの違う意味がある。今日は富士山が見えない、というのは、雲がかかっていて見えないのだから、状況的に不可能である。字が小さくて見えないというのは、視力という能力が足らなくて不可能であると言っている。
心理的な可能性の判断もある
関西では、この洋服は小さくて「着られへん」という。物理的に着ることができないということだ。
しかし、もうひとつ言い方があって、こんな服「よう着んわ」などと言う。これは、小さすぎるからではなく、みっともなくて着られない、恥ずかしくて着る気になれない、という意味である。つまり、心理的な可能性についての判断なのだ。
若者の使う「無理ーっ」というのは、物理的、能力的に不可能であるというのではなく、心理的に不可能であるということなのだ。要するに、やりたくない、嫌だ、ということなのだ。
だったら最初から「嫌だ」と言えばいい。そう言わないのは、嫌なのだが、そう言ってしまうと、自分勝手なわがままに聞こえてしまう。身もふたもない。「無理である」と判定すれば、相手が不可能なことを要求している、その要求のほうが理不尽なのだということになる。自分は悪くない、と言えてしまう。客観的、理性的に聞こえるからなのだろう。
正当な拒否であると主張されてもなぁ。もう少し考えてみてくれてもいいのではなかろうか。
サライ2019年8月号、金田一秀穂による連載「巷(ちまた)の日本語」、第31回。
若者の「無理」、私は嫌な言葉だと以前から思っている。金田一先生のこの分析を読んで、さらにその気持ちが大きくなった。
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