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2019年8月 6日 (火)

ドッコイショ

 もうずいぶん昔のことになるけれど、七月二十日過ぎに夏休みを利用して、富士山に夜通しで登ったことがある。いや、もうビックリしたの何のって、山肌にぞろぞろ人、また人で、富士銀座といわれるわけだと、大いに納得したことであった。
 敬虔(けいけん)なる登山者は仏教語の「六根清浄」と唱えながら一歩一歩踏みしめていく。こっちも「ロッコンショウジョウ」と負けずに大声をあげたが、当時は何を意味するのかわかっていなかった。
 のちに『太平記』十八「比叡山開闢(かいびゃく)事」でこんな一文にぶつかった。
「是れ慚愧懺悔(ざんきざんげ)の教主たり。六根罪障の我等何ぞ之(これ)を仰ぎ奉らざらんや」
 要は教主となれるような聖人と違い、われら凡夫は「六根」(眼〈め〉・耳・鼻・舌・身・意)に罪汚(けが)れをもっている。すなわち、眼は不浄のものを見る、耳は不浄の音を聞く、鼻は不浄の匂いを嗅ぐ、舌は不浄のものを食す、身は不浄のものにふれる、意は不浄のことを思う、ということ。そこで聖なる山に登り身も心も清浄無垢(むく)になることを六根清浄という。そう唱えるのは、そうなりたいという神仏への祈りを唱えることになる。
 仏教語では、この六根清浄を略して「六根浄」ともいう。そこでものは試しと、六根浄、六根浄、六根浄、六根浄……と、無限に早口でくり返してみると、いつか「どっこいしょう」と唱えているのに気づく。われら老骨が立つとき、座るとき、寝るとき、起きるとき、無意識のうちに口から飛び出す「ドッコイショ」がまさにこれなり。
 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、われらの祖先はいつでも清浄潔白でありたいと、祈りの掛け声をかけていたのである。世の爺(じい)さま、婆さまよ、このよき伝統にならって、これからは遠慮することなく祈りましょうぞ、「ドッコイショ」と。
 ついでに富士登山の愉快な話を一つ。昭和五年(一九三〇)夏、東京日日新聞(現毎日新聞)がロバ、牛、豚、山羊(やぎ)に富士登山をやらせることにし「あなたのお好きな動物は何合目又は何合半を突破するか」というクイズをだして懸賞募集したら、これが大当たりで、部数がのびた、という嘘(うそ)のような話がある。
 経過は省略して、結果だけ。ロバが一着で、豚はトントンといかず二日がかりでやっと頂上に達したという。そのときドッコイショと豚クンが唱えてゴールイン、なんていうはずはないな。
朝日新聞 be on Saturday 2019年7月27日(歴史探偵おぼえ書き)
ドッコイショと富士登山 半藤一利
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私も意図的に「ドッコイショ」を連発しています。

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